場面緘黙症の記事はコチラ

場面緘黙児が勇気を出すとき

川

こんにちは。超無口のチョームです。

最近夫にも人見知りしています(^^;)

このブログでは、私が長いこと苦しんだ場面緘黙症についてカテゴリーを掲げて書き綴ってきました。

ブログ立ち上げ当初は積極的に記事を書いていこうと思っていたのですが、なんとなく気が重くて、気が付くと大好きな100均の話とか、今一番興味のある健康に関しての話に偏っていました。

場面緘黙エピソードはいくらでもあるんです。

ただ、過去を思い出して書いていくと、うまくいかなかったことや辛かった出来事などがドッとよみがえってきて、なんともいたたまれない気持ちになります。

誰それにこんな酷い仕打ちを受けた、あの先生は最低だった…的なことを書こうと思えばいくらでも書けるんです(笑)

しかしですね、一個人の過去の愚痴を読まされても誰も得しないし、結局だから何なの?ってなりますよね。

なので、今回はちょっと前向きな話を書いていこうかと思います。

場面緘黙児の自由

私は自然豊かな農村で生まれました。

一歩家の外に出れば周りは田んぼ、畜産業をやっている家が多く、風の強い日にはどこからともなく堆肥の匂いが漂ってきます。

遠くに見える山並み、近くを流れる川、歩けば至る所から虫やトカゲが飛び出し、葛のツルに足を取られるような砂利道が、私の通学路でした。

田植えや稲刈りの時期に軽トラックが通るくらいなので、通学路は子供たちにとっては家の庭の延長みたいなところがあり、横に広がってお喋りをしながら登校するのは当たり前の光景でした。

私は学校では誰とも喋れませんでしたが、この通学路では、1人の幼馴染みとだけ話しをすることが出来ました。

名前はEちゃんとしておきましょう。

Eちゃんとは家が隣り同士で、就学前からお互いの家を行き来していたので、とても親密な仲でした。

一応登校班があったのですが、車がほとんど通らないという開放感があって、学校近くにいくまでみんな整列もせずにお喋りをしながら歩いていました。

私たちはもっぱら怖い話で大盛り上がり。

しかし、基本喋れるのはEちゃんだけなので、他の子に自分の声を聞かれることが恐怖で、誰かが近づいてくると一瞬で口をつぐむということを繰り返していました。

私はそれで安心していたし、万全だと思っていました。

Eちゃんにしてみれば、不自然に話が中断してしまうので迷惑この上ないと思うのですが、特に苦言を言ってくるようなことはありませんでしたね(;´∀`)

慣れっこになっていたんでしょうね。

ただ今改めて思い返してみると、私とEちゃんが仲良くお喋りしている姿はみんなの目にも映っていたわけだし、私の話し声を聞いたことはなくても、会話はしているんだろうな…ということは誰もが分かっていたのでしょう。

それに、私は出席確認や国語の朗読、指名されての発言といった半強制力がある場では言葉を発していました。

さらには、しょっちゅう男子児童に傷付くようなことを言われて泣いていたので、泣き声という形で私の声はみんな知っていたんだと思います。

客観的に見れば、私が突然流暢に喋り出したとしても、最初は衝撃があるかもしれませんが、案外自然に受け入れられたんじゃないかと思います。

だから、一にも二にも重要なのは、私が自分の殻を破る勇気を持つことだったのでしょう。

とはいえ、運命のイタズラで自分でも分からないままに勇気を振り絞らなくてはならないような状況になったこともありました。

あの日のことを思い出すと、今でも心臓がせり上がります(;・∀・)

年上からの洗礼

その日はEちゃんと、橋の下に広がるちょっとした広場に遊びに行きました。

整備されているわけじゃないので、自分たちで丈のある草をかき分け踏み鳴らし、細い道を作ってやっとたどり着くような場所です。

そこで川に足を浸したりして遊んでいました。

なんせ気心の知れた幼なじみ同士なので、笑い合ったりどうでもいい会話で盛り上がったり、かなりリラックスしていました。

本当にリラックスしていたんだと思います。

橋の上から誰かが覗き込んでいることにまったく気付きませんでした。

クスクス笑いがして、ゾッとしました。

恐々橋の上に視線を向けると、そこには自転車に乗った上級生の女子二人がいて、小馬鹿にしたような笑みを浮かべていました。

やってしまった…。

聞かれた。喋っているところを見られた…。

血の気が引くという言葉を当時の私が知っていたとは思えませんが、あれこそまさしく血の気が引くです(;´∀`)

上級生の一人が聞いてきました。

「こんなところで何してるの?」

Eちゃんはあまり安全とは言えない橋の下で遊んでいることを非難されたと感じたのか、口をつぐんだまま。

気が付くと私の口から言葉が出ていました。

「遊んでるの」

もう人格が分離した状態です。

その声を私はもっと別の場所で聞いているような心地でした。

「普通に喋ってるじゃん」

上級生二人は身を寄せあって興奮した様子でした。

小さな小学校でしたので私が喋らないことは全学年が知っているような状況です。

中でもこの二人は歯に衣着せぬ感じで、苦手でした。

「いつも喋ってるよ」

分離したもう一人の私。

「えー、うそ。いつもなんて喋ってないでしょ」

「喋ってるって、普通に」

なぜかそう押し通していました。

するとこの二人、どういうわけかこのはったりに同調し、すんなりと受け入れたのです。

「この下級生、全然喋らないと思い込んでいたけど、なぁんだ普通に喋っていたのね」

こんな感じ(笑)

そこからは普通に会話が始まりました。

「ここで何してるの?」

「足、水に入れて遊んでるの」

「そんなこと楽しいの?」

「うん、楽しいよ」

「えー、やだよね」

「冷たくて気持ちいいよ」

「川の水とかイヤだから」

そしてやけにスッキリした表情で去っていきました。

私はどっと疲れ、生きた心地がしませんでした。

Eちゃんは、私が上級生と普通に喋ったことに対して特に何も言ってこなかったので、このことからも言葉を発する発しないという事柄に関して深刻になっていたのは、私ただ一人だったのでしょう。

考えてみれば、他の子にしたら言葉でコミュニケーションをとることって、空気を吸うのと同じくらい当たり前で自然なことですからね。

それをおおごとに思うような発想は、もとからないのでしょう。

そしてこの日以来、上級生二人と深く関わることはありませんでしたが、以前感じていた私に対する威圧感のようなものは感じなくなりました。

なんとなく二人に認められたような感じは受けましたが、二人の姿を遠くに見つけると、あのときの緊張と羞恥心がよみがえってきて、逆にソワソワと落ち着かない心地になりました。

自分の殻を破るには、まだ私という人格の土台が不安定だったのかもしれません。

Sponsored Link

場面緘黙児が勇気を振り絞るときは不意打ちをかけられた時

場面緘黙症だった私が口を開かざるをえなかった出来事として、このような不意打ちがあったよというお話でした。

こういう流れって、どういう心理状態で起こるのだろうと今回考えてみたのですが、結局口を開くことによって自分自身を守ったんだと思います。

場面緘黙児は不自然を極端に嫌います(私だけ?)

喋っているところを見られて、そのことでからかわれたりすることは、人生で一番の恐怖。

もうすでに声を聞かれてしまっているのに黙りこんでしまったら、自分の弱さを長いこと責めながら生きていくことにもなる。それも恐怖。

とっさの判断だったんだと思います。

人一倍プライドが高いので、自分をこれ以上不甲斐ないやつだと思うことに耐えられなかったんですね。

Eちゃんとの楽しいひとときに傷を付けたくないという思いも、恐らくあったのでしょう。

こうして私のプライドは守られましたが、あの瞬間の何とも言えない恥ずかしさと緊張は、今なお私の記憶に鮮明に刻まれており、時々前触れもなく意識の中に浮上してきます。

いったい何なんでしょうね(;´∀`)

人間の脳って不思議。

Sponsored Link

さいごに

このブログでは、私の場面緘黙の背後にあった出来事や克服した時のこと、後遺症と思われる症状についても書いています。

興味のあるかたはぜひ目を通してみてくださいね(^^)

応援よろしくお願いします!!
↓↓↓

場面緘黙症ランキング